Maninamoon
マニナムーン


バイオグラフィ


バンド”CANVAS”を脱退した吉田は、より強力なバンド結成を目指し奔走する。

最初に声を掛けたのは、深夜の歌舞伎町で弾き語り活動を続けていた佐藤であった。

吉田は佐藤のバンドで何度かギターをプレイした事があり、以前からその歌唱力の高さに
一目置いていた。佐藤は弾き語りを通じて歌唱力に磨きをかけ、独自のコミュニティを作り
上げる事に成功していたが、吉田の話にOKを出す。

次に吉田が声を掛けたのは、CANVASに在籍していたキーボディストの西岡である。

西岡に声を掛けるに当たり、吉田は悩んだ。

そもそもCANVASは吉田が結成したバンドで、大手オーディションで最終選考まで残る等、
一定の成果を上げていたが、他メンバーとの活動スタンスの違いから吉田はバンドを去った。
CANVASで曲を書けるのは吉田と西岡の二人であり、西岡まで居なくなれば、CANVASが
空中分解してしまうのは明らかであった。

が、佐藤の説得により吉田は決意し、西岡を引き抜く事に成功する。

こうしてManinamoonの3人が晴れて揃ったのである。

ドラマーとベーシストの選考は難航した。ヘルプで一時的に入ってくれる人間は居ても、
なかなかバンドとして一緒に活動するという所までは至らなかった。特にベーシストは
人材難であった。吉田はManinamoonをバンド編成とする事に拘ったが、最終的に断念し、
以降、3人組のユニットとして活動する事となる。

ユニット名”Maninamoon”は佐藤によって付けられた。これは、結成当初に作られた
”Man in a moon”という曲のタイトルを繋げたもので、響きが良く、他の二人も気に入り、
即決であった。


7曲入りのデモテープを作成したManinamoonは、ライブハウスに売り込みを掛ける。

渋谷Egg-manでのデビューライブ(この時のみバンド編成でのライブだった)を皮切りに、
La.mamaやTAKE OFF 7など、渋谷を中心としたライブ活動を次々と行い、ユニットと
しての方向性を徐々に固めていった。

ライブではちょっとしたコントを行うのが定例であった。佐藤が書いた脚本を、主に佐藤と
西岡が演じるのだが、ファンの年齢層が比較的高かった事もあり、アダルトなネタも少なく
なかった。

ある大手レコード会社のプレゼンライブでの事。その日の客は女子高生が多く、いつもの
Maninamoonのライブに比べ、年齢層が遥かに若かった。最初は予想以上に客の受けが
よく、メンバーもステージで意気揚々していたのだが、コントのオチが下ネタであったのが
災いし、いつもなら笑ってもらえる所で、女子高生軍団から猛烈なブーイングを喰ってしまう。
吉田と西岡は冷や汗をかいたが、佐藤は全く怯まずに歌い続け、度胸の良さを見せ付ける
形となった。


週末は毎週徹夜でスタジオに入り、作詞や作曲、編曲に追われながらライブをこなすという
忙しい日々の中、佐藤の下に、地方FM局でManinamoonのラジオ番組を持つ話が舞い込む。

佐藤はこれを受諾し、”ポップ・イン・ザ・ナウ〜MIOはいつでも上機嫌!”という番組が
誕生する。DJを始め企画・構成まで佐藤が手掛け、ジングルは吉田が作り、コントで西岡が
佐藤の相手役を演じ、Maninamoonの楽曲が毎回流れるといった、正にお手製の番組となり、
2クールに渡りオンエアされた。


勢いに乗ったManinamoonは、佐藤の提案により、インディーズでのアルバム発売を目論む。

バンドであればスタジオでのレコーディングが必須となり、アルバム制作費は相当に高くつく
所であったが、幸か不幸かManinamoonの音楽はシンセサイザー・プログラミングが主体で
あった為、自宅録音を中心に作業を進める事が可能であった。

当初は吉田の所有していたMR-8TというTOAのカセットテープ式MTRやMAXONのアナログ
ミキサーを使って制作を進めていたが、あまりにも機材のトラブルが多く、行き詰ってしまう。

そこで佐藤が資金を掻き集め、VS-880というROLANDのデジタルMTRを購入。これで一気に
作業環境が改善し、次々と曲を仕上げ、遂にアルバム”Maninamoon 1st”が完成した。

最初の7曲のデモとは異なり、西岡がシンセサイザー・プログラミングを全面的に担当する事に
よってテクノの要素が楽曲にプラスされ、奇をてらう事無く3人の個性が融合。このアルバムで、
ようやくManinamoonサウンドが確立される事になる。

話は前後するが、”Maninamoon 1st”制作の最中、仕上がった曲を有名全国オーディションに
応募した所、一次審査、二次審査と潜り抜け、無事、最終選考へと駒を進める。実に8000組
以上の応募者の中から選ばれ、それだけでも光栄な事であった。

最終選考はショー形式になっており、カシオペアの向谷実氏による司会で盛り上げられた。

結果、Maninamoonは見事受賞。ショーの後に行われた、受賞者のみが参加できる祝勝会
では、西岡は予てから尊敬していた向谷氏と会話する事ができ、感無量の趣であった。


Maninamoonは多くの人々に支えられ、アルバム”Maninamoon 1st ”を無事発売する。

そしてライブ活動を続けるうち、とうとうスポンサーを買って出たいという人物に出会った。

しかしこれがManinamoonのピークとなってしまう。

過酷なアルバム制作を通じ、メンバーには相当なストレスが溜まっていた。それぞれが
プライベートな時間を全てManinamoonに捧げ、かなりの無理をしていたのである。

また、その「無理」を周囲の人々に結果として押し付けてしまう形になっていた事も、切実な
問題であった。


Maninamoonは解散の道を選んだ。

3年に満たない僅かな活動期間であり、皮肉にも”Maninamoon 1st”が最初で最後の公式な
アルバムとなってしまった。

が、全力で駆け抜けた。

今は三者三様の人生を歩んでいるが、Maninamoonの音楽は、三人にとって貴重な財産で
あるに違いない。



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